「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(1コリ 9・24)。
近江商人のこんな話が残されています。
二人の呉服屋が、重い荷を降ろして峠で一休みをしました。
「この峠がもう少し低かったら、いいんだけどねぇ」と、一人が弱音を吐きました。
「あ、そうですか。私は、この峠がもっと高かったらいいと思いますが。そしたら、意志が弱いというか、本気じゃない人は、商売に行かなくなるでしょ。私はどんなに苦労をしてでも、峠を越えます。そして、ひとりで儲けさせてもらいますよ。」
でも、これは仲間を蔑んでいるではなく、励ましているのだそうです。
峠を越えなければ商売はできません。峠を越えて反対側の町まで行かなければ、途中まで頑張って登っても何の意味もありません。商売人として生きるためには、越えていくしかないのです。
今週も、「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません」(1コリ 9・26a)といえる走り方をしましょう。
人生の「決勝点」がはっきりしている人は、山があるのは当然とみます。もちろん、山道が狭く険しく、疲れれば休みます。でも道草は食いません。「決勝点」を目指すためです。人より先に着くことが目標ではありません。急ぐ人には先に行かせます。疲れた人を助けるためにしばしとどまることはあるでしょう。でも、絶対に「決勝点」を忘れてはなりません。
すでにキリストによって開かれた道を行くのです。しかも、キリストが共に行ってくださるのです。峠もその道の上にある過ぎません。そして、多くの人がすでに通ったのです。