■自給自足の知恵と能力
私は農家出身ですが、実家は農作業に関わることはもちろん、多くのことを自前で行い、多くの物を自分の家で作っていました。思い出しながら数えるとキリがありません。実にこんなものも作っていたのかと思うと驚きです。
各種穀物類、ゴマ、菜種、果樹類、薬草、お茶など栽培はもちろん、牛、鶏、ヤギの飼育、麹、味噌、醤油、甘酒、餅、おかき、各種漬物など保存食品、竹かご、草鞋、筵、縄から小道具、炭などの生活必需品、塀や小屋作り、井戸掘り、壁塗り、屋根吹き、障子張り、布団縫い、服飾、飾り付け、季節や祭りの必需品の作成、竹とんぼ、竹馬、そりなどの遊び道具にいたるまで、多くのものが自給自足、自前でした。結婚式、出産、村の宴会、臨終も葬儀も家で行われました。これをどの家でも当たり前のようにやっていて、それができることが一人前と呼ばれたのです。もちろん全自給ではありませんが、それでもずいぶん多才だと思います。
私が子供の頃は農業人口は30%を超えていましたが、今は3%です。半世紀で、農民が持っていた自給自足の能力と知識がこの国からほとんど消えてしまったことになります。
■社会が成熟すれば、人間自身は幼稚化する
その何が問題なのか、と思われるかもしれません。でも、阪大教授の鷲田清一さんはこう主張します。「社会が成熟すると、人間は成熟しなくても生きていける。社会が成熟すればするほど、人間は無能力になり、幼稚になっていく。社会が未成熟な時代は、お産からしつけ、結婚、老人の世話、死の見取り、葬儀、埋葬まで、すべて自分たちでこなしてきたが、今は病院や学校、公共施設などに頼ってしまっている。自分で自分の命の世話をする能力を失ってしまった。」何も知らなくても、「お金さえ出せば」すべてを社会のシステムに任せることができ、専門分野の人たちがすべてをやってくれます。コンピュータなどの機器ともなれば、専門家の助けなしにはどうにもなりません。家や車のメインテナンスまで、自分のことは何でも自分でできるという人がいなくなった社会なのです。
昔、都会の人たちは田舎者を軽く見ました。私もそんな扱いを受け、卑屈なところがありました。しかし、実は都会人のほうが幼稚で、自活能力がないのです。都会人に威張らせておくのではなかった、と今更ながら残念に思います。
■自分の魂を幼稚化させるな、心を自活させよ
しかし、幼稚化は生活能力に関してだけではありません。精神的な面のおいても著しく幼稚化しています。昔の人たちが若い時代に考えていたことや、書いた物、生き方にふれると、その成熟ぶりに驚かされることがあります。今なら三十過ぎても言えないようなことを、十代の少年が見事に表現したりしています。字も達筆です。今日のように自由で豊かな時代に生きていると、人は自分の存在意味や魂についてあまり深く考えず、自分の心を鍛えることもなくなってしまうのかもしれません。思考停止でも、なんとなく生きるいけるのです。自分で探り、考え、求め、読み、決断し、訓練し、学び、祈り、信じ、忍耐し、そして自分で成長していくことを怠っていると思います。心のことは、お金を払って専門家に任せ、手っ取り早く、豊かに成熟させてもらうというわけにはいかないのです。
魂が知恵と力を失い、心が自活能力、自己決定能力、責任能力を喪失すれば、たいへんなことになります。人に支配され、運命任せ、世の中任せになるでしょう。
キリスト者の強さは、日々、聖書の言葉で魂を鍛え、成長させることにあります。霊的洞察力、決断力は、この日々の鍛錬から育てられます。魂に関しては、聖書だけで自給自足できます。