「3つの楽しみ」100425

マイク・ビックル(植野伝道師が3か月訓練を受けた米カンザス州のIHOPの牧師)がその著書『断食の報酬』の中で、三種類の楽しみについて語っています。それは「不正な楽しみ」「正当な楽しみ」「聖なる楽しみ」です。

「不正な楽しみ」とは、この世の快楽、罪の楽しみです。この快楽に馴染むと、私たちの霊性(主との関係)は損なわれ、心の卑しい人間に変えられていきます。「聖なる楽しみ」は、主なる神を知り、主と交わり、主の御心を行う楽しみです。主との関係が深まり、聖い人間に造り変えられていきます。この二つ「楽しみ」をどう扱うべきかは明確です。「不正な楽しみ」は、クリスチャンにとっては、決して喜びではありません。「肉の体」が一瞬 楽しんでも、心には疚しさ、罪責感、敗北感が残るだけです。「聖なる楽しみ」は、「肉の体」が一瞬 痛んでも、心には解放感、勝利感が広がります。

さて、問題は「正当な楽しみ」です。この喜びは、それ自体では罪ではありません。無害です。無垢な楽しみです。それを楽しむことは許されています。たとえば、レクレーション、食物、栄誉、知識、一般芸術、情報、スポーツ観戦などで楽しむことです(職業ではありません)。これらは適度であれば知性、健康、精神状態に寄与します。しかし、私たちの霊性を直接高める喜びではありません。主との深い関係へといざないはしません。聖書において、これらを楽しむことを禁じられてはいないでしょう。だからこそクセモノとなりえます。それらに没頭し、過剰に時間をかけやすいからです。そうなると、主との交わりの時間と質を圧迫することになります。この無垢な楽しみの時間を正しく制御し管理することは、霊性を高める上でとても大切だと思います。

私は「正当な楽しみ」に注ぐ不必要な時間を割き、主との交わりの喜びに回すように心がけています。