今日は母の日です。
新渡戸稲造が一高の校長だったとき、運動会に婦人用のベンチを用意させました。すると内部から「校長は婦人をかわいがる」と非難が出ました。こう言い方をされると、普通の男なら恥じて引いてしまうところです。しかし、新渡戸は少しもひるまず、「諸君は女性というとどんな女を思い浮かべるのか知らぬが、私は誰よりも母のことを思い出す。弱い婦人を長時間立たせておくべきではない」と逆に難者たちを恥じ入らせたそうです。新渡戸は東京女子大学の創立、恵泉女学園などのへの協力など、多岐に渡って女性の向上に尽力していますが、彼の女性への思いの中心には「母」があったのです。当時の男たちの低劣な女性観を覆すものでした(「新渡戸稲造の信仰と理想」佐藤全弘著、教文館参照)。
女性というと、あなたは誰を思い起こしますか。母でしょうか。妻でしょうか。新渡戸は、家庭の変革を説き、他人は親切なくせに、親や妻に対しては強い態度で辛く当たる男を、根性の小さな、卑屈な男だと言い、清い心で妻を愛し、母を慈しむ男性こそ立派な強い男だと述べています。そこでこそ平和が成り立ちます。つまり、「食卓(一家団欒の席)を清める者は世界を清める」のです。
このように他人の言葉を借りて書くのは、私にも忸怩たるものがあるからです。
男の皆さん、弱い女性を労わりましょう。強そうに見える女性でも弱いのです。イエス様も、母マリヤ、サマリヤの女、姦淫の現場で捕らえられた女、マグダラのマリヤなどの遊女などに憐れみを示されました。誤解を受けてもかまうことなく慈しまれました。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペソ5・25)。教会は神の家族です。教会の婦人を、特に年長の婦人たちを愛しましょう。そうした愛は教会全体を豊かにします。女性の力が隠れたところで教会を建て上げてきたのです。