フランスの彫刻家ロダンといえば、「考える人」「カレーの市民」などの作品が思い浮かぶと思います。最近、ロダンの作品には、痩せてみすぼらしい老婆や鼻のつぶれた醜い顔の彫刻もあると知りました。ロダンには「自然の中で真実に生きている限り、醜いものでも美しくなる」という考え方があって、外見の形ではなく、その人の奥深い所にある真実を美しいと感じて、作品にしたというのです。
私たちは、生まれついた体と外見を、一生涯背負うことになります。外貌には、心の状態や生き方が反映することは確かです。心の奥深い所で培われた真実が、キリストの香りとして、にじみ出るのだろうと思います。だれでも年をとれば、容貌も体型も崩れていきます。でも、心の真実という美しさは残るのです。
旧約聖書には多くの美男美女が登場します。サラ、リベカ、ラケル、ヨセフ、サウル、ダビデ、タマル、アブシャロム、エステルなどがそうです。しかし、その外見美が必ずしも彼らに幸福をもたらしたわけではありません。サラ、リベカ、ヨセフ、タマルなどは、美貌のゆえに災難に見舞われています。サウル、アブシャロムの場合は、その不信仰や反逆のゆえに、外貌の良さがかえって彼らをみすぼらしくしています。エステルは、美貌のゆえにペルシャの王妃に選ばれ、ハマンのユダヤ民族絶滅計画を阻止しましたが、彼女の美貌がユダヤ人を守ったわけではありません。彼女のいのちを投げ出す信仰の行動が救ったのです。彼らの外見美と内面の真実の美しさとは別物です。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(Iサム16・7)。これが主の真実です。
レアは不美人でした。美人の妹ラケルと夫ヤコブの愛を争いましたが、愛を得られず、悲しみを心に秘めます。しかし、4番目の子を生んだ時、主をほめたたえ、「ユダ」(「ほめたたえる」の派生語)名づけました。この信仰の行為が彼女の人生を決定しました。ダビデ―キリストはレアの子ユダから登場するのです。
主を信じる真実に生きましょう。