人間は祈る生き物です。人の体が呼吸することで命を保つように、人の霊は創造主に祈ることで「真のいのち」を維持するのです。
ダビデは祈りで生き抜いた人でした。祈りとは、全能にして愛なる神を自分の「隠れ家」「逃れの場」にすることです。ダビデはこう歌います。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら」(詩18・2)。
祈りこそ、最も堅固な「砦」「隠れ家」です。ダビデはそこで、平安と力を回復し、困難と戦う勇気と勝利の確信を高めていきました。この「隠れ家」の時間がなかったら、ダビデは自滅していたでしょう。
外ではどんなに自分を装っていても、家ではリラックスして家族に自分のそのままを出してしまうように、「隠れ家」では神の前に強がらず、涙してもいいのです。とはいえ、神に「隠れ家」でかくまってもらっているのですから、神に指示を出すような祈りをするべきではありません。無礼や嘘があってはなりません。神に真実を尽くし、常にくずおれた心で向かい合うべきなのです。
祈りの焦点は困難や悲しみではなく、神に合わせましょう。神の愛と全能の力に合わせるのです。困難や悲しみに合わせても、何の力も確信も湧き出はしません。単なる事情報告や自己弁明のような祈りをすべできはないのです。自分の罪を神に弁解してみても無意味です。「隠れ家」で神と深く交わっている時間が多い人ほど、言い訳が少なくなります。そんなことを考える必要がないからです。
一日24時間、呼吸が止まらないように、祈りも24時間、無意識にしているという人もいます。眠っているときも、内住の聖霊が祈っていてくださるというのです。そんな神との交わりの世界を目指してみましょう。