人の住む家、住まない家

紅葉の丹波に帰省し、実家の整理をしました。先祖が百数十年住んだ家ですが、来春から「古民家」として貸し出すことになりました。まあ、よく持ち堪えてきたものです。人が住み続け、保全してきたからですね。

私の実家は上林地区という山間部にありますが、まだその入り口に所在し、さらに10キロ、20キロ先入れば上林、上林が続き、そして峠を越えれば今話題の福井県大飯町です。母をグループホームから連れ出して、これが最初で最後だと上林の村々を車で巡りました(岡林信康が隠棲した村がある)。バスも通らない隔離された山奥に、1軒、2軒、数軒と入母屋式の農家が散在しています。対向車が来たらどうすればいいのか分からないほどの狭い道路を進み、もう人家はないだろうと思ってカーブを曲がれば、まだ現れて驚かされるのです。もちろん店などなく、高齢の住民はどうやって暮らしているのか、子供たちは学校に行っているのか・・・しかし、渓谷と紅葉はもったいないほどの美しさです。

そんな山奥ですから、無人になった家々もあります。無人家と人家とは、遠目にもはっきり区別できます。人の住む家はどこも屋根が実に見事に輝いているのです。母によると半永久的な材質の屋根で、相当お金をかけているとか。屋根が「私たちはここに住んでいる。ずっとこの村で生きていく」と、住民の強い意志を語っているのです。一方、無人家は、近づいてみれば、さび付き、腐り、荒れ放題です。もう修復は利かず、早く壊してしまったほうが安全という状態になっています。人が住む住まないで、違いは歴然です。

家は無人にすれば朽ちます。私たちの心も聖霊が住まわれなければ、やがて朽ちます。罪と悪霊の住処になります。しかし、聖霊が住まわれるなら、いつまでも新しいのです。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」(ロマ 8・11)。