曖昧な国民でいいかも

日本人は、欧米人や中国人、韓国人のように、YES・NOをはっきり言わないので、「日本人は分かりにくい」と言われます。しかし、優柔不断さは優しさ、気短さは決断の速さの裏返しであるように、曖昧さは調和の力でもあります。日本人は曖昧さで人間関係を円滑にしていく民族です。こちらの言い分をはっきり言わないで、相手に分かってもらおうとし、また相手の遠回しな言い方でその気持ちを察しようとします。相手を傷つけず、正面対決せずに、事を治めようとします。

もちろん、日本人同士でもその曖昧さでいらつくことはありますし、YES・NOをはっきり言ってもらわないと困るときもあります。しかし、「空気を読む」「阿吽の呼吸」「それとなく心を察する」というのが、歴史と風土が培ってきた日本民族のあり方なのです。この曖昧さが日本の社会の調和を支えてきたといえます。

最近、何と日本在住の韓国人が、「これからの調和と融合を目指す国際社会では、この『曖昧力』の働きが大きな役割を果たすようになるでしょう」「曖昧力は環境への適応性も生み出します。私は、日本的な自己とは、西洋的なアイデンティティという自己決定的な自己ではなく、変化する環境で生き抜くのに最もふさわしい姿を目指すものだと考えています」(呉善花『日本の曖昧力』PHP新書)と、日本人の曖昧さを高く評価してくれています。勇気ある発言です(そのため、彼女は韓国に帰ることができなくなりましたが)。

「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ 1・20)。相手が怒りたけっているときに、同じ怒りで正論をぶつけ返しても、争いは拡大するばかりです。相手に感情を煽られず、事を荒立てず、「気をつけて静かにしていなさい。恐れてはなりません」(イザヤ7・4)という主の言葉に従うに越したことはありません。

むろん神との関係に曖昧さがあってはなりませんが、人との不必要な争いを避けるために、白黒付けず、主の裁きに委ねて待つ姿勢も悪くないと思います。