叫ぶ石

週報に掲載されるコラム

それぞれの信仰に応じて

主イエスの弟子が12人ともパウロのような熱烈な信仰者だったら、キリスト教会はもっと飛躍的に急速に広がったかもしれません。しかし、12の異なる教会、教団に分裂していた可能性もあります。パウロは、第二回宣教旅行に発つとき、使命に不忠実だったマルコの扱いのことで、恩人のバルナバとさえも激しく対立し、別行動を…

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ヒゼキヤ病

預言者イザヤがユダの王ヒゼキヤに主の裁きを告げます。「あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい」。王国が滅びる日がやがて来るといっているのです。それに対してヒゼキヤは応えます。「あなたが告げてくれた主のことばはあ…

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義と愛を立てる

1998年夏、甲子園球場のグラウンドは38度、スタンドは超満員。延長十五回裏、豊田大谷高校の攻撃は無死満塁。守る宇部商の2年生エース藤田の投球数は200球を超え、ふらふら状態でした。そして、セットポジションに入ろうとして、手をストーンと降ろしました。その瞬間、主審が「ボーク」を宣告、サヨナラゲームとなりまし…

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神の国の文化「愛」(12) 「愛はけっして絶えることがない」

人間の愛は相手次第で変わります。愛する理由を相手に見つけようとするからです。相手が愛しやすい人ならば愛し、愛しにくい人ならば愛せません。人間は、愛する理由を自分のうちにもっていないのです。しかし、キリストは相手がだれであれ、愛されます。相手次第で変わることはありません。相手の心が変わっても変わりま…

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人生はリスクを負うこと

「噴火直前の火口に飛び込むのと、滝壷に飛び込むのとでは、どちらのほうがリスク(危険度)が高いですか」と質問されたれら、たいていの人は「火口に飛び込む」のほうを選ぶでしょう。しかし、実は「滝壷に飛び込む」が正しい答えです。なぜか。火口に落ち込んだら「必ず死ぬ」からです。助かる可能性がないことをリスク…

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「私」は「私たち」、「私たち」は「私」

サッカーや野球などの試合を球場で他のファンと一緒に応援するのと、家でひとりテレビ観戦するのとでは、かなり違います。またCDで音楽を聴くのと、コンサートやライブで聴衆の中にいるのとはまるで違います。臨場感だけではなく、球場や会場に詰めかけた多くの人たちとの一体感、連帯感で、感動が増幅するからです。人は…

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