創世記2章25節
「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2・25)。罪人は追う者がいないのに逃げ隠れします。しかし、罪のない人は恐れや不安に駆りたてられません。ありのままを見られても恥ずかしいとは思いません。心に疚しさがない人ほど自由なのです。私たちは罪赦され聖とされたのですか…
もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。
もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。
聖書のことばとショートメッセージ
「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2・25)。罪人は追う者がいないのに逃げ隠れします。しかし、罪のない人は恐れや不安に駆りたてられません。ありのままを見られても恥ずかしいとは思いません。心に疚しさがない人ほど自由なのです。私たちは罪赦され聖とされたのですか…
「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世記2・24)。父母を離れるとは、主と直接的な関係を築き上げ、その関係に立って判断し、選択し、行動することです。そして、自分の信仰でサタンに立ち向かうことです。そんな霊的に自立した信仰者にして初めて、互いに励まし、一体となるこ…
「それからキリストにある死者がまず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」(Ⅰテサロニケ4・16b、17a)。主が私たちとともにおられること、それが永遠のいのちです。主の再臨の日には、永遠のいのちの現実を目の当たりにして、圧倒される…
「主は、号令と御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」(Ⅰテサロニケ4・16a)。半分は自分の力に、半分は神の力に依存した生活をしているなら、早くこの世から足を洗いましょう。左足は神の国に、右足はこの世に、という生活では、キリストの再臨の日に不安定な立ち方になってしまいます…
「神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです」(Ⅰテサロニケ4・7)。十字架の贖いは、罪を赦すためであって、罪を許可するためにあるのではありません。自分が罪に陥りやすいパターンを把握し、罪の習慣から脱することに、真剣に取り組みませんか。世はすでに私たちに対して十字架に付け…
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」(Ⅰテサロニケ4・3a)。聖いとは、すべての汚れや罪の行いから自分を切り離し、心と体を尊く保つことです。いつも聖霊の臨在を意識し、情欲や不品行や嘘の誘惑を断ち切りましょう。世の人々を愛することは大切ですが、世の風潮には同調せず、心は隔離して置きましょう。これは…