年齢に支配されない

80歳でイスラエルを出エジプトへと導いたモーセ。同じような年齢でモーセの後継者となったヨシュア。85歳でも壮健で、ユダ族のリーダーとしてヘブロンを勝ち取ったカレブ。彼らは年齢に縛られた生き方はしませんでした。 私たちはどうでしょう。年齢に応じた平均的な生き方に縛られていませんか。たとえば、生まれた時から、身長、体重、言葉、運動、学習において、この年齢なら、ここまでは達していなければ普通ではない、と考えてしまいます。子供の成長や成熟は、個々で異なるし、能力の種類や開発時期も違います。早熟型もいれば晩成型もいます。同年齢はみな同じレベルであるべきだ、と考える方がおかしいのです。遅れていても焦ることはないし、早熟でもちゃんと「20歳過ぎればただの人」になります。 また、年をとれば、体力、気力、記憶力が衰えていくからといって、人生が縮小するのではありません。年齢や能力で「できる、できない」「すべき、すべきでない」を決めるのは、聖書が教える生き方ではありません。 確かに、年をとれば若い頃よりある種の能力は低下するし、病気になれば健康な時より、できなくなることもあるでしょう。しかし、何かができなくなるということは、別の道が開かれることでもあります。逆に、何かができるということは、別の道が閉ざされるということでもあります。人間、一つのことができなくなれば、他にできるものは何もなくなる、ということはありません。 私は吃音で音痴だったため、人前では緊張し、歌う、演奏する、語ることが苦手でした。それで、考え、書くことに集中しました。しかし、吃音が治ると、話すことも好きになり、そのせいかどうか、他の道は能力的に閉ざされ、牧師への道が開かれていきました(それは主の恵みに信頼するという道です)。  病気や事故のため体が不自由になったがために、五体満足であれば閉ざされていたであろう能力を発揮している人はたくさんいます。パウロのように、避難生活、牢獄生活が長かったがゆえに、霊の世界が開かれ、かえって多くの働きができるということもあるのです。今の年齢や能力で、人生を決めるのは賢くありません。