味覚と聖餐式

私たちの五感は遠近に対応しています。最も遠くを捉えることができるのは視覚です。裸眼で、何万光年離れたところの光でも確認できます。二番目は聴覚です。視覚ほど遠くまでは感知できません。ただ視覚よりも優れているのは、目の届かない隠れた所の物まで認識できることです。音でスイカの甘さまで分かります。三番目は嗅覚です。かなり近づかないと臭いはわかりはません。しかし、目に見えず耳には聞こえないことをキャッチすることができます。四番目は触覚です。距離がゼロでなければ得られない感覚です。そして最後は味覚です。味覚は距離がなくなったということ以上の感覚です。

 味覚は体の外でなく、体の中で体験するものです。感覚の対象が消えて、私たちの中に溶け込んでしまいます。李御寧(イオリョン)氏は、それが聖餐式のパンとぶどうの汁の意味だといっています。パンはキリストの体、ぶどう汁は血です。

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」(ヨハネ6・51、53、56)。

キリストを見る(認知する)、聞く(従う)、嗅ぐ(包まれる)、触れる(人格・神格を直接的に体験する)こと、もちろんそうすることがキリスト体験ですが、さらに進んでキリストを「食する」「味わう」「摂取する」「一つとなる」というところまでに達するべきなのです。それは、教会が天と地をつなぐことでもあります。

キリストの言葉を聞き、実践し、祈り、賛美していく中で、キリストを食し、噛み、飲み、味わって、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの」(雅歌2・16)と言えるまでになりたいと思います。