捨てる その1

 信仰とは「捨てる」ことです。
聖書は「捨てる」ことを教えています。聖書には、「捨てる」という表現がたくさん出てきます。「捨てる」ことは「与える」ことでもあります。捨てず、与えず、手元に残しても、結局は奪われるか、失うか、腐ることになります。
1. 「捨てた者」がイエスの弟子になれる
捨てなければイエスの弟子になれません。イエスの弟子となるためには、所有物も自分自身も捨てなければならないのです。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタ 16・24)。「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(ルカ 14・33)。
 実際、イエスの弟子たちはすべてを捨ててイエスに従っています。
「彼ら(ペテロら漁師たち)はすぐに網を捨てて従った」(マタ 4・20)。「するとレビ(マタイ)は、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」(ルカ 5・28)。
 しかし、イエスについて行くことを願っても、捨てられなかった者は弟子にはなれませんでした。マタイ19章の「金持ちの青年」がそうです。イエスから、「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。・・・そのうえで、わたしについて来なさい」(21)と命じられましたが、捨てられずに「悲しんで去って」行きました。のです。多くのものを所有する者が捨てるのは難しいのです。主は、「らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(24) とまで言われました。
 捨てること、与えることを恐れてはなりません。それは主からもっと良きものを「得る」「受ける」ことになるからです。主から受けるものは永遠のもの、私たちが捨てるものはこの地上で消えていくものです。自分が堅く握っているものを手放さなければ、主からは何も受け取れません。