信じるとおりに生きられない?(下)

(先週の続き)大方の日本人は、自分の信念や考えを徹底的に突き詰めて、生きることをしません。いや、突き詰めないことこそが、日本人の生き方なのではないかと思います。たとえば、クリスマスにはプレゼントやケーキを買い、大晦日にはお寺の除夜の鐘を撞き、年が明けると神社に初詣して拍手を叩きます。いろんな神々を渡り歩いても、何の矛盾も感じないのです。「主を讃え 仏に暮れて 神に明く」とは、日本の習俗をうまく表現した川柳だと思います。一つのものに深く関わることを嫌うのです。関西では、「宗教には凝ったらアカン」と言います。

そして、そういうどっちつかずの姿勢で、何でも受け入れてしまうことを、日本人は「寛容だ」と表現します。逆に、一つのことを徹底的に突き詰める生き方を「頑固で、非寛容だ」と非難します。特に、ユダヤ教、キリスト教のような一神教を嫌います。

私は若いときから「凝る」タイプで、思想や信仰にはのめり込みました。親族や知人からは忠告や揶揄を受けましたが、私は日本人の不徹底で、曖昧な生き方は嫌いでした。正直なところ、そうした人を「思考停止した人」「死を直視しない人」と、軽蔑していました。

しかし、今はこう考えるようになりました。いいも悪いも、これが「日本人らしさ」を徹底した生き方なのだと。この生き方を島国で長年培ってきたのだと。

私たちは、こうした日本人に、「救いはキリストにしかない」ことを伝えるのです。ユダヤ人のパウロが「(私は)ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです」(?コリ 9・20)と語っています。私たちも日本人を獲得したいなら、「日本人には日本人のようになる」べきなのだと思います。日本人にとって、日本人クリスチャンの考え方や生活は、いつのまにか外国人のようになっています。もう一度日本人の気持ちに沿って、日本人にキリストを伝えることを考えたいと思います。

聖書の生き方に徹底すべきす。しかし、日本人には寛大になりましょう。