信じるとおりに生きられない?

あなたは、自分が信じているとおりに生きられていますか。不思議なことですが、人間は、自分の信じるとおりには生きられない生き物のようです。

もしキリスト教のように絶対的で唯一なる神を信じているのなら、その神がすべての基準であり、その教えに従って生きるはずです。なのに、あたかもその神が存在していないかのように、自分の基準で考え、自分中心に行動してしまうことがあります。肉の弱さのために、信じているとおりに生きることが徹底できないのです。それが私たちの痛みです。

では、神の存在を信じていない人たちはどうでしょうか。「神は存在しない」と信じているとおりに生きているでしょうか。

いいえ、とてもそうは思えません。創造主なる神が存在しないなら、この世界も人間も偶然に存在したものであり、すべては無に帰するだけであり、生きる目的も意味もありません。絶対的基準はなく、善も悪もありません。無神論を突き詰めていけば、伝道者の書が語るとおり、「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」「私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。」「(一番幸せなのは)今までに存在しなかった者」だ(1・2、3、4・2、3)ということになります。

しかし、無神論の生き方を徹底して生きている人に出会ったことはありません。神は信じないという人たちも、まるで神がいるかのように、生きることに意味や目的を求め、道徳を意識し、愛に価値を見出そうとしています。その矛盾に気がついている人はほとんどいません。神を信じないのなら、自分中心に考え、不義不正をし、快楽に身を委ね、盗んだり殺したり嘘をついたり姦淫をしたりして暮らし、「ああ、すべては虚しい。早く死にたい」と言っているほうが、一貫しているのです。

もし、信じるとおりに生きようとするなら、どちらの立場のほうに希望がありますか。・・・ところが、日本人の多くはどちらの生き方も選んでいないのです。