憎まれる勇気

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです」(ヨハネ17・14)。

 クリスチャンは主を喜び、主に喜ばれる生き方をします。また、人を喜ばせ、喜ばれることを行います。これが基本です。

しかし、人に喜ばれることより、主に喜んでいただくことを優先しなければならない場面は多々あります。その場合、人に嫌われることになるかもしれません。人に嫌われるのはいやなものです。しかし、私たちの救い主イエスは、神の言葉を語られ、愛のわざをなさって、この世に憎まれ、十字架につけられたのです。クリスチャンが同じような目に合うのは、当然のことなのだと覚悟しておく必要があります。

 自分を省みてみましょう。

人に嫌われるのがいやで、いつも気に入られることばかり話していないか。それは主に喜ばれることではありません。相手が置かれている状況や気持ちを配慮することは大切ですが、主の教えに譲歩してしまってはなりません。十分配慮した上で、語るべきことは語らなければなりません(上手に)。

逆に、あなたに厳しいことを言う人、煙ったい人は、みな敬遠すべき人なのか。自分の周りを、いいことばかり言ってくれる人だけで固めてはなりません。

 私たちが目指すのは表面的な喜びではありません。真理に立った喜びです。その喜びを目指して憎まれても、主は喜んでいてくださいます。嫌われても心密かに喜んでいましょう。主イエスがそうだったことを忘れてはなりません。

神の国の喜びを味わうために、ときには憎まれ役を果たす勇気も持ちましょう。イエスに従う私たちはこの世のものではないのです。