主に嘆願する三つの方法(下)

そして、三つめは、神の「聖なる御名と栄誉」への訴えです。主はご自分の御名と栄誉のために行動なさいます。主の御名が侮られることを放置なさいません。「わたしの名は一日中絶えず侮られている」(イザヤ52・5)。その御名を回復するために、主は全能の御手でご自分の民を救い出されます。たとえ、「主の民」が罪に汚れていても、主の御名を負った「主の民」であるがゆえに滅ぼさず、これを愛し、再び立たせてくださるのです。主はこう言われます。「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった」(イザ 48・9)。「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない」(イザ 48・11、エゼ 20・14)。

私たちクリスチャン(Christian)もキリストの名(Christ)を負っています。主はご自分の御名を守るために、恵みと慈しみを注ぎ、同時に御自身の義を明らかにされます。ですから、私たちはこう祈れるのです。「私はあなたの御名を負っています。どうか、あなたの御名が汚されないように、私を助け出し、あなたの御名を高めるために、私に力を与えてください」と。

モーセは、イスラエルの民が金の子牛を作って主を怒らせたとき、この三つの方法で主に赦しを嘆願しています。出エジプト32・11~14をお読みください。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか」などと、訴えているのです。

さて、私たちが主に憐れみを訴えるのなら、私たちも憐れみ深い者になりましょう。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」(マタイ5・7)。また、祝福と恵みの契約に訴えるのなら、私たちも主に対して忠実でありましょう。そして、主の御名と栄誉に訴えるのなら、私たちも主の御名を負っている者らしく、その「名」を誇りした行動をとりましょう。人々の前で、キリストの御名を汚さないように。