主に嘆願する三つの方法(上)

聖書の人々が主に向かって嘆願するとき、神の心に届く三つの方法がとられています。

一つは、神の約束への訴えです。主はアブラハムと、「無条件に祝福する」という契約を結ばれました。それは永遠の契約です。主は忠実な方ですから、その契約を決してお忘れになりません。主は旧約聖書の歴史の中で、アブラハムと結ばれた契約のゆえに、たびたび恵みと憐れみを「神の民」に施し、彼らを救い出しておられます。「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」(出 エジ2・24)、と。それゆえ、主がイスラエルの罪を怒られ、根絶やしにすると言われたときには、モーセは主にこう訴えました。「あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください」(申 9・27)。

今日の私たちも、キリストが自らの血潮で結んでくださった「新しい契約」に訴えることができます。つまり、キリストの十字架による罪の赦しと、復活の保証と、恵みを施すという約束です。私たちは、「あなたの約束(Iヨハネ5・15)のゆえに、願いはかなえられたと信じます」と祈りましょう。

二つ目は、神の憐れみへの訴えです。「主は、あわれみ深く、情け深い神」(出エジ34・6)です。民の悲惨さを憐れんでくださいます。それゆえ、イザヤはこう告げます。「・・・山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ」(49・13)。ダビデは詩篇で、「主よ。私をあわれんでください。私は衰えております」(6・2)と、随所で訴えています。もちろん、福音書でも、苦しむ人々がキリストに向かい、ユダヤ人も異邦人も「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください」と、声を張り上げています。パウロはこう言っています。「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(ロマ 9・16)。

私たちも、自分の惨状を訴え、主の憐れみ深い心に信頼して、「こんな罪人の私をあわれんでください」(取税人の祈り、ルカ18・13)と、叫びましょう。(三つ目は次週に)。