力以上にささげる

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」(Ⅱコリント8・1~4)

 パウロは、マケドニヤの教会が受けた「神の恵み」について語っています。

1)彼らの教会は、「苦しみゆえの激しい試練の中にあって」「極度の貧しさ」の状態にありました。

2)しかし、彼らには「満ちあふれる喜び」がありました。

3)その喜びが「自ら進んで」「力以上にささげ」「惜しみなく施す富」となりました。

4)彼らは、「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたい」「熱心に願ったのです」。

 極貧の中から力以上に捧げることは「痛い」ことですが、その「痛み」が「満ちあふれる喜び」になるのが信仰です。「レプタ銅貨を二つ投げ入れた」「貧しいやもめ女」の信仰もそうです。彼女は、誰よりもたくさんささげたと主イエスから称賛されました。私たちもこの信仰を持ちたいと思います。

 私たちは教会堂建設計画を具体化させるところまで来ていました。しかし、その計画を一時中断して、東北地方の震災・津波で被災した教会の復興のために祈り、そして献金をささげることにしました。私たちは今、不便はしていますが、それでも礼拝をささげる場所があります。しかし、被災地には、会堂を失った教会があるのです。私たちは小さな群れですが、そうした教会の「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたい」と思います。

通常以上、力以上にささげることは「痛い」ことですが、「自ら進んで」ささげるなら、「神の恵み」「満ちあふれる喜び」となると信じます。