使い捨ての消費社会で

私の記憶では、最初の「使い捨て」は紙コップでした。1970年代初めごろです。それがプラスチックになり、スチールやアルミも加わって、飲み物などの容器、肉、野菜、果物の販売容器も、買い物袋まで、ほとんどが使い捨てになっていきました。今や、海は使い捨てゴミの墓場となっています。

人間自身も使い捨てにされるようになったと言われます。学校は高度産業社会の労働力の生産の場となり、能力の種類分けとランク付けがなされて、労働市場に送り込まれます。しかし、市場の都合で労働者も使い捨てにされる事態が生じたのです。

そして、今、顕著に使い捨てにされているのが情報・知識です。インターネットで毎日、洪水のように流れ込んできます。私たちは、その中から興味ある話題だけを開いて読み、あとは垂れ流しです。読んだ情報・知識でさえもその時かぎりで、ほとんどが使い捨てです。国の将来に関わる情報であっても、まるで他人事のように批評するだけなのです。

私たちクリスチャンも、こうした使い捨ての消費文化に馴染んでいるはずです。

今日、世界中の教会やクリスチャンが発信する情報や礼拝にアクセスできるようになりました。それ自体が悪いというのではありません。私もしています。ただ気を付けなければならないのが、聖書の知識の使い捨て、礼拝の消費です。ほとんどが頭の中で消化して、その時かぎりになる危険があります。そこに体が参加していないからです。場合によっては、単なる評価の対象、あるいは他人事です。

GCCも非常事態宣言中の2か月は、礼拝をオンラインで行いました。しかし、それはあくまでも非常事態の緊急手段です。それでも、それが礼拝として成り立ったのは、GCCの兄弟姉妹が日頃から共に礼拝し、共に聖書を学び、互いに祈り合ってきたからです。キリストにあって一つであると、心だけでなく体でも実感しているからです。

今後も、信仰生活においても、インターネットでのこうした消費、使い捨ては続くでしょう。だからこそ、一緒に集まる礼拝を大切にします。