美しい寂しさ

愛する人を天に送り、もうその姿をこの地上で見られないのは、本当に寂しいことです。しかし、ただ単に、見えなくなったから寂しいのではありません。愛しているからこそ、寂しいのです。それゆえ、その寂しさは美しいと言えます。

しかもそれは、けっして虚しい寂しさではありません。西の海の彼方に沈む美しい夕日をいとおしむのに似た寂しさです。太陽は、明日また、東から新たに昇ってくることを知っているので、私たちは安心して落陽の美しさを眺めることができます。「忘却の海」に一直線に消え去って、もう二度と戻らないような美しさではないのです。必ずよみがえるのです。

ヨハネの福音書11章には、主イエスも愛するラザロの死に際し、「涙を流された」(ヨハネ11:35)とあります。しかし、それは絶望の涙ではありませんでした。罪と死の力に屈してしまう人間への憐れみの涙、そしてラザロをいとおしむ美しい涙です。

主は、ラザロの病気の報に接したとき、こう告げられました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(11:4)。そしてラザロが死ぬのを二日間待たれました。つまり、ラザロは復活して主の栄光を現すために死んだのです。主の涙は、その希望と喜びを前提とした涙でもあったことがわかります。この主のことばの「病気」のところに、「寂しさ」や「涙」を入れてみてください。

GCCは設立して17年半になりますが、その間、多くの兄弟姉妹を天国に送りました。その方々の生前の姿が一人ひとり思い浮かびます。葬儀のときに流した涙も思い出します。

そして、これからも、愛する兄弟姉妹の召天に涙を流すことになります。しかし、みな、新しい栄光の体でよみがえるために、天国に行くのです。私たちが流す涙は、復活を前提とした希望の涙、尊く美しい涙です。

先に行った人たちを尊ぶことは、今の私たち自身の「いのち」を尊ぶことでもあります。