手紙

昔、「春はお別れの季節です、みんな旅立っていくんです」という歌がありました。毎年この時期になると、私は少々忙しくなります。職場でも人事異動の季節、「去られる方々に言葉の花束を贈りましょう」と声をかけ、贈る言葉を募集し、写真と共に編集し、最後の日に手紙としてプレゼントするという役割を担っているからです。皆、喜んでこの手紙作戦に参加してくれます。

言葉を贈る人は、しばらくの時、心の中で去っていく方のことを思い、思い出と感謝の言葉を文字に落とします。そして手紙を贈られた人が、にっこりしながら読んでいる姿を見ることが、私のひそやかな喜びでもあります。かくいう私に対しても、昨夏の入院中、妻の発案により、職場の大勢の同僚から、病状をいたわり回復を祈る手紙の束が届けられ、思いの込められた言葉の一つ一つに、大いに励ましを受けました。送る側と受け取る側の心が通じ合う手紙って、本当にいいものですね!

聖書にも多くの「手紙」が含まれています。パウロもヤコブもペテロも、手紙を書く時には、受け取る先の教会や同労者たちのことを心から思い、今、その人たちにどういうメッセージが必要なのかと真剣に考え、1字1字を書き連ねていったのでしょう。受け取った側も、師匠たちの言葉からあふれる思いを、真剣に、姿勢を正して(?)、受け取ったことでしょう。

それらの手紙だけでなく、聖書全体が神様からの私たちに対するラブレターだと言われます。神様ご自身が、神様に背き、勝手に離れていった人間に対して、もう一度方向転換して戻ってきてほしいとのメッセージを発し続け、ついにはひとり子イエス・キリストの命さえ、人間の罪の身代わりとして与え、救いの道を開いてくださった-そして方向転換した私たちがこの世で信仰を持って生き、ついには神の国で共に生きることを楽しみに待っていてくだる-。 私たちの目の前には、今日もこの神様からの手紙が置かれています。聖書を読み、私たちがその言葉を心から受け取る時、きっと差出人である神様はにっこり(大笑い?)しながら喜んでくださっているに違いありません。(近藤信)