任された命

私は、植物を育てることがどうも向いていません。水をあまりやらなくても大丈夫、という種類のものさえ、いつの間にか枯らしてしまいます。でも、家の中にグリーンが欲しくて、リビングにいくつかの植物を吊るしています。が、水やりを数日忘れ「はっ!」と気付いて見上げた時には、根元からしんなり…枯葉が数枚…ということが、何度もあります。枯れた葉を取り除き、慌てて水をやると、翌日にはシャッキリしているのでした。

わかりやすい復活の様子に、しみじみ感動するとともに、信仰生活もこれと同じだなぁと感じます。命の源である、御言葉を日々食べる大切さ。たった1日、御言葉を読まないだけでも、思い煩いに支配されたり、この世の情報や知識に惑わされたり、元気を失ったりしがちです。

もうひとつ、不思議だと感じること。野外の木々は、ほったらかしなのに季節ごとに花を咲かせ、実をならせ、四季折々の彩りを楽しませてくれます。枯れたようでも、新たな季節には、新たな芽吹きがあります。何年も、365日、ほぼ定まったリズムで。すごい!

だけど、家の中の植物は枯れてしまう…これはどういうことなのか?!思うに、太陽の光、時々降る雨、土の養分、気温…神様の創造された自然はあらゆるものが完璧なバランスで成り立っているのだ、と。

家に置く植物も、神様が造られたものだけど、それをどう成長させるかは、水や土の状態を気にして世話をする、人間の力量にかかっているのですね…自然界の完璧なバランスには到底及ばない。

小さな植物さえ枯らす愚かな私に、3人の子の命を託されるとは、神様とんでもないことをなさるな、と思います。けれど、3人とも元気に育っているのは神様の守りと、日々ご飯を食べさせ、着る物を与え、と日々目を離さないためでしょう。植物のことは忘れても、子どものことは忘れない。それは愛情、関心の大きさの違いかもしれません(植物さんごめん)。

大自然を完璧なバランスで保っておられる神様は、私たち一人一人の命をとんでもなく大きな愛情と関心を持って見守っておられることを思い、また感動するのです。子どもたちに、日々のご飯だけでなく、御言葉を食べさせることも、忘れてはいけませんね。(津山祐子)