小さいは大きい、大きいは小さい ――フラクタル――

木の葉の葉脈の走り方って、木の枝の生え広がり方と形が似ていませんか。そう考えると、木の葉の一枚一枚が、一本一本の木のように見えてきます。

また、真ん中に原子核があって周りを電子がぐるぐる回っている、という原子の構造。これって、太陽系の様子と似ていませんか。太陽系も、真ん中に太陽があって、周りを惑星がぐるぐると回っています。

このように、部分の形が全体の形と似ている、というつくりを、「フラクタル」と言います。教会塾で話してみたところ、「ブロッコリーの一切れって、ブロッコリーの一株と形が似てる」という声が上がりました。確かに確かに。

他には、海の波とか、雪の結晶とか、神様の造られたものの多くが、そのような構造を持っているようです。だから、小さいところを見ると大きなものが想像でき、また大きい全体に目を向けると小さいところを想像することができる。面白いですね。

しかしそういえば、聖書の中にもそのような原理があります。例えば、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(ルカ16:10)。小さいことに心をこめて仕えている人を見ると、この人は神さまにも忠実なんだろうなあと想像できます。

あるいは、マタイ24章の世の終わりの預言は、紀元70年の神殿破壊のときにも実現しましたが、それはイエスさまの再臨のときのことも指し示しています。だから、神殿崩壊のことを知ると、世の終わりのことが想像できる。

さらには、今私たちが捧げている礼拝。この小さな礼拝を喜んで捧げるとき、主が再び来られ神の国が完全に訪れたときの礼拝がどれほどの喜びか、想像することができる。

神さまは、小さなことから大きなことを考えるようにと思って、世界を造ってくださっているのではないかと思うのです。その思いが、木の葉っぱや原子の構造にまでも行き届いているのを見ると、主の創造の深い配慮、そして美しさにため息が出ます。私たちが今日のささいな場面から、永遠を思うことができるようにしてくださった主を賛美します。(新田優子)