行司と祭司

今日は大相撲春場所(大阪)の中日(なかび)(8日目)です。ときどき相撲中継を見ますが、今場所は関取だけではなく、行司さんにも注目しています。

行司はイスラエルの祭司の役目に似ています。

祭司は主の定めた掟(律法)に(のっと)って、民に主の裁きを下します。自分の感情や裁量で裁くのではありません。あくまでも主の裁きであり、人間の情状酌量で軽くしても重くしてもなりません。祭司には裁く権限はないのです。

行司も、土俵下がりに座している5人の「勝負審判員」の代理として、土俵上で勝ち負けの判定をしているのであって、行司自身には裁く権限はありません。行司は、勝負が決まればとっさに軍配を東か西に上げて判定を出しますが、「勝負審判員」が一人でも物言い(異議)を付ければ、5人「審判員」が協議して勝ち負けの判定を出します。行司は、自分の判定がひっくり返されても、異議申し立てはできません。勝負を裁く権限は、あくまでも5人の「勝負審判員」にあるのです。

行司の役割は、向かい合う両力士が呼吸を合わせて、公正に立ち合えるようにすることです。土俵の主役は力士であり、両力士が最大限の力が出せるように「立ち合わせる」ことです。昔、テレビの実況中継のアナウンサーは「土俵を裁きますのは式守伊之(しきもりいの)(すけ)」など行司を紹介していましたが、行司会から「行司は力士を裁きません」と注意され、今は「合わせますのは、木村庄之助」などと言っています。

行司がすごいのは、あの装束の(ふところ)に「進退伺(しんたいうかがい)」を用意し、腰には短刀を指していることです。それは間違った判定を下したら、腹を切る覚悟があるということです。実際、「勝負審判員」によって判定が覆されたら、「進退伺」を提出するそうです。

モーセの「祭司の王国」の時代、祭司は、神と民との間に立って、とりなしの務めを果たしていました。祭司は主の裁きを民に告げ、同時に、主にいけにえを捧げて、民の罪の贖いをしていたのです。今は、御子キリストが父なる神と私たちの間にあって、大祭司の役割をしていてくださいます。私たちも、キリストによって祭司の役割が与えられています。