たとえ忘れていても

昨年末のことです。電話が自宅にかかってきました。近所のおばあさんからでした。名乗られたその名を思い出すのに、少し時間がかかりました。

その方とは3年以上前に、よく近所でお散歩をされていて、何度かお話ししたことがありました。血栓の後遺症で、体が痛いけど歩かないといけない、と話されたので、会うたびに癒しをお祈りし、イエス様のこともお話ししました。嬉しそうに聞いておられたのですが、しばらくして全く会わなくなってしまい、自宅にもお手紙を何度か届けましたが、会うことはできませんでした。

実は、一人暮らしがいよいよ難しくなったので、千葉の娘のところに正式に越すことになり、今までのお礼を言いたいとのお電話をくださったのでした。そしてその娘さんがご挨拶に来るというのです。

いらっしゃった娘さんは、「母はお祈りしていただいて、随分心強く、嬉しかったようです。お手紙も大切にします」と言ってくださいました。また「聖書に興味があります」と言われるので、創造からキリストまで、お互い寒い風に吹かれながら、お話ししました。すると、「今日を限りに人生が何か変わった気がします」と言われたのです。

実のところ、私はそのおばあさんのために祈ったこともすっかり忘れていました。しかし、神様は忘れておられないのだとわかり、驚きました。もう会うことはできないかもしれませんが、その母娘のために祈り続けようと思いました。神様は私の知らないところでも、着々と働いておられて芽を育ててくださるのです。

9月に蒔いた花の種が芽吹かず、忘れていました。ところが、12月に突然芽吹きました。捨てなくて良かった。そんなことからも、種を蒔き続けること、結果は主におゆだねすることを学びました。

「…『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。』」(マルコ4:27)。(きのつらユキ)