神の国を受け継ぐ(エペソ1・11,12)

「私たちはキリストにあって御国を受け継ぐ者となりました。私たちは御心により計画のままをみな実現される方の目的に従って、このうように予め定められていたのです。それは前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」(エペソ1・11、12)?

10節で、「一切のものがキリストにあって一つに集められ」、神の国が完成します。11節では、私たちがその神の国を受け継ぐ者になると約束されています。それは私たちが熱望したのでも、たまたまそうなったのでもなく、神の計画の中でそう定められているのです。それは神の一方的な恵みです。私たちクリスチャンは、その日、神の国の偉大さと神の栄光をほめたたえる者になります。
パウロは獄中にあって、その日を待ち望み、神の栄光を思って興奮気味に語っているのですが、私には今一つピンときません。神の国は想像を絶するほど栄光に輝く国だというのはわかりますが、想像を絶するものであればあるほど実感が湧かないのです。むしろ退屈なのではないかとさえ思ってしまいます。現代のように迫害のない平和で豊かな社会に生きているからでしょうか。パウロのように多くの苦しみを受け、危機感や緊張感をもって生きていれば、神の国の栄光がもっと身近に感じられるのでしょう。パウロは決して現実からかけ離れた夢を見ているのではありませんから。
あまりにも大きすぎて見えないものがあります。たとえば、地球は大きすぎて、人類は長い間地球が丸いことに気付きませんでした。今でも地球の外に出ないかぎり、実感はできません。地球が回っていることも体では感じられません。同様に、神の計画や神の国はあまりにも壮大すぎて、私の感性ではとらえられないのです。その御国の完全さは、今の私のたましいでは感じ取れないのです。ただ、頭の中でぼんやり見ているだけなのです。パウロも、「今、私たちは鏡にぼんやりと映るものを見ているが、その時には顔と顔を合わせて見ることになる」(Iコリ3・12)と語っています。
 しかし、第三の天にまで昇ったパウロは、神の国の栄光をはっきり見たので、神の国を受け継ぐ日のことを思って興奮しているのです。私たちもその日には、新しい感性を与えられ、その壮大さ、偉大さに圧倒されることでしょう。それだけは確かです。